こんにちは!Cocoです。
今回は物理学者の長岡半太郎さんををフォーカスしていきたいと思います。
中心に角のある原子模型である土星型原子モデルの提唱をした方
多くの弟子を指導され
ご自身も大学総長や院長をされていらっしゃいました。
今回は長岡半太郎さんとはどんな方だったのか功績や
子孫や弟子についてもまとめていきたいと思います。
長岡半太郎とは?
それではまず最初に長岡半太郎さんとはどんなことをされた方
なのか紹介していきたいと思います。
長岡半太郎さんとは物理学者であり
土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した方です。
その後湯川秀樹さんが全てのノーベル賞に受賞した時も
長岡さんが全てのノーベル賞委員会に湯川さんを
ご紹介した経緯もあったそうです。
しかし大学時代の長岡半太郎さんは日本人には科学的な研究
の能力が備わっているのだろうかと
悩んでしまい1年間大学を休学したこともあったんだそうです。
とっても真面目な方ですよね。
プロフィールは?
そんな日本人として有名な物理学者である
長岡半太郎さんのプロフィールをまとめていきましょう
長岡半太郎
生年月日1950年12月11日生まれ日本長崎県大村市出身
落第をしたこともあったり幼少の頃は漢字を教えこまれていたことで
東洋史の学者になろうという考えすら持っていたそうです。
元々は文系が好きでしたが、学部を変えたことにより
物理学に触れることで一気に物理学への探究心が膨らみます。
その後はドイツ留学をし3年間物理学の最先端で学びます。
幼い頃からキュリー夫人などはお素晴らしい記憶力で天才でしたが、
長岡半太郎さんのように
何か好きなことに打ち込んで結果を出す。
好きなこと以外はあんまり興味のないタイプも当時もいらしたんだなと思いました。
功績を解説
それでは次に長岡半太郎さんの功績をまとめていきましょう。
長岡半太郎さんの功績は土星の衛星を電子になぞられた有名な
土星型原子模型を提出した方
初めは長岡半太郎さんが出した結論が
正しいのか正しくないのか定かではありませんでしたが
1911年ラザフォードの実験により
長岡半太郎さんが正しかったことが証明されます。
この当時は長岡半太郎さんが正しかったものの
日本人があまり海外で評価されることが少なかったので
長岡半太郎さんのものとはならず海外ではラザフォード原子模型と
言われているんだそうです。
当時は残念ながらノーベル賞もアジア人だから止められることも多く
現在の査定だったら
長岡半太郎さんはノーベル賞を受賞されていたと言われています。
子孫は?
それでは次に気になる長岡半太郎さんのご子孫についてなんですが長岡半太郎さんは
1840年代幕末から明治時代の日本の官僚や法学者でもあった
箕作麟祥さんの三女操子さんと結婚されて、
3男1女つまり4人のお子さんを設けていらっしゃいます。
しかし、操子さんが
お亡くなりになってから再婚されます再婚相手は平川登代さんと
結婚
男の子5人も受けました。
つまりお二人の奥様の間に男の子8人女の子一人を設けられました。
その後お子様たちもどんどん成長され素晴らしい子孫にも
恵まれましたね
長岡半太郎さんご自身は一人息子として生まれたので
家族が多いことは大変でもあったかもしれませんが楽しかったでしょうね。
最初の奥様との長男治男さんは理化学研究所理事長
次男の正男さんは日本光学工業社長を務められ
唯一の女の子である長女は、長岡半太郎さんの
弟子岡谷辰治さんとご結婚されたということです。
次男のまさおさんは物理学者の家庭で育っていますので
経済のことはわからないということで
硝子製造所長の社長に就任するも
3年後には製造所長にされたということで
何かを調べて作り上げることの方が経営よりも楽しかったんでしょうね
長岡半太郎さんのお子様の家系図を見ていきますと
とにかく様々な大きな会社の方とつながりがあり
長岡家は箕作家だけではなく、三菱の創業者一族岩崎家とも
長岡さんの子孫はご結婚されていたということで
子孫たちは様々なビジネスのチャンスがあったんでしょうね
弟子は?
それでは次に長岡半太郎さんのお弟子さんについてまとめていきましょう。
自分の娘が弟子と結婚された長岡半太郎さん
たくさんの弟子を育てたと言われていますが
その他にどんな方がいらしたのか調べて行きましょう。
本多光太郎さん 物理学者
日下部四郎太さん 地球物理学者岩
愛知敬一さん 物理学者
寺田寅彦さん 物理学者
石原純さん
仁科芳雄さん
岡谷辰治さん 娘の夫
湯川秀樹さん 日本人として初めてノーベル賞受賞
弟子の研究にもはっきりと物申すことが多かった長岡半太郎さん
はっきりとした裏表のない性格であったでしょうね
ご自身はノーベル賞受賞することができませんでしたが
にしてある湯川秀樹さんを
ノーベル賞受賞へと導くために
彼の凄さを伝えて言ったのは誰でもなく長岡半太郎さんです。
つまり厳しい方ではあったけれども
後輩や弟子たちのために常に行動をされていたということも
お見受けできますね。
長岡半太郎まとめ
今回は日本の物理学者長岡半太郎さんについてまとめてみました。
ご自身は日本に帰られてから東京帝国大学で
定年退職するまで教授を務めあげられました。
その後も地球の研究を続け85歳で亡くなりました。
亡くなる当日も地球物理学の本を広げて
読んでいらしたということですよ。
長岡半太郎さんはノーベル賞を受賞しなかったものの
当時はキュリー夫人がピエールキュリーま
たレントゲンによる X 線の発見などで
多くの物理学者が活躍されていました。
長岡半太郎さんもご招待され、キュリー夫人たちと一緒に
パリで万国物理学会に出席されたそうです。
すごい!!!!!。
今日本で物理学でもノーベル賞を受賞できるのは
日本人最初の業績でもある長岡半太郎さんがいらしたというのも
大きいでしょうね
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