こんにちは!Cocoです。
今回は初めて日本地図を作った伊能忠敬さんをフォーカスしていきたいと思います。
伊能忠敬さんはどんな方だったのか
略歴や凄いエピソードもご紹介していきたいと思います。
そしてなぜ伊能忠敬さんは日本全国地図を作ることになったのか
地図を作る経緯についてもご紹介していきましょう。
伊能忠敬のプロフィールは?
それではまず最初に伊能忠敬さんのプロフィールをご紹介していきましょう。
伊能忠敬さんは1745年千葉県九十九里の小関さんの家庭に生まれました。
7歳の時に母親を亡くなり
兄と姉は父親と過ごしましたが、
伊能忠敬さんだけは十歳まで別に過ごし
10歳で父親の元に戻ることになります。
家族とは別々に暮らしていたため
幼い頃孤独の人生を生きていた伊能忠敬さんは
幅広い学問を学び、
何かしら花を咲かせたいと思っていたそうです。
1762年忠敬 17歳の時、もともとお酒を販売したり運送業したり商売に励んでいました。
伊能家の婿養子として迎えられました。
佐原に来てから商人として一生懸命働いた伊能忠敬さん
伊能忠敬さんを養子に迎えてからの伊能家の
ビジネスはとんとん上向きになってきました。
略歴は?
今回は伊能忠敬さんの経歴を略歴と称して
まとめていきましょう
伊能忠敬さんは伊能家の商売を、着実に広げ続け
約60億を稼ぐほど商売は大きくなっていきました。
商売に夢中だったりの田坂さんも50歳を目の前にふと気づきます。
「好きな天文学を学びたい!」
伊能忠敬さんが50歳の時、11月11日
西洋の暦の1月1日
この時、当時寿命に近い年齢だった年齢であったけれど
好きな天文学をきちっと学ばなければいけないと江戸へ
伊能の商売は長男に継がせ
伊能忠敬さんは江戸へ旅立ちました。
ここで改めて天文学を学んでいた
高橋至時氏に弟子入りします。
この師匠は19歳も年下 江戸深川へ移住
実はこの時弟子入りした師匠の高橋至時氏は、
伊能忠敬さんに対し最初は趣味程度で学びに来たのではないかと
一歩引いて見ていたこともあったそうなんですが
とにかく学び続ける伊能忠敬さんに驚きて
どんどんいろんなことを教えてくださったそうです
いろいろと考えていくと伊能忠敬さんの凄さは
当時寿命に近い年齢でありながらも
新たなことを学びたいと自分の仕事を息子に任せ江戸に行かれたことが
何よりの決断の潔さと前向きさが惹かれますね。
なかなかできることじゃありませんね。
エピソードは?
今までは伊能忠敬さんのプロフィールや略歴を求めて行きましたが
次に人柄をも確認することができるエピソードをご紹介していきますね。
思いやりを忘れない伊能忠敬さん
伊能忠敬さんのエピソードをたどっていきますと人柄の良さは、
いくどとなく感じることができます
天明の大飢饉の時に、食料がなくて困っている方に
米を配ったりととにかく人思いの伊能忠敬さんのエピソードは素晴らしいと思います。
態度を慎み、争いごとをするな
この伊能忠敬さんの名言から見ても
争いごとを避けて、偉ぶっていない方だということがわかりますね
そしてさらに天文学を学んでいた時
伊能忠敬さんの中の疑問が頭に浮かんできます。
それは地球の大きさについて
時代背景を考えると
目的はより正確な暦を作るために
より正確な地球の大きさを知ること
地球の一周はどのくらいなのか?
ということ
伊能忠敬さんはさらに追及していくために
地球1度の距離×360° = 地球の大きさ
このことにたどり着きます。
とにかく危険を顧みないエピソードが多いのです。
50歳で天文学を学び始めて弟子入り
ロシアから守るために正しい地図が必要だと言う国からの命令により
1800年4月19日56歳の時に出発、測量を始めます。
測量のエピソードを拝見すると、
多くの方も測量に参加してくださったそうですが一定の歩幅で歩いては距離をはかり
一定の歩幅で歩いては距離を測り続け
1日の長さとしては1日40 キロ程度進んで行ったんだそうです。
実は驚くべきにこの時はほとんど自費で行かれたとのこと、
幕末からお金は出たそうですが、少ない約2割程度だったということです。
63歳になってもまだ続けていました。
海岸の近くはあまり行かない方と言われても、
測量はコツコツと海辺の際まで行きました。
3727日 およそ4万キロ
73歳まで測量は続けました。
娘さんに語ったエピソードは?
長年娘さんには会えず、寂しい思いもされていたでしょうね。
娘さんへのお手紙を度々と書いていたのですって!
それによれば、びっくりする身体的なエピソードが
あったのです。
長年のハードな生活で歯は抜けて、1本になってしまって
大好きな奈良漬けすら食べられないほどだったそうです。
測量後は?
測量後はそれぞれ測った地図を
つなげていく作業に入りますが、
74歳で突然病に倒れてなくなります。
しかし亡くなったことは公表せずに、
弟子たちによって最終的にまとめられて地図が完成しました。
晩年は?
日本国中測量したことは私の天命でしたと
本当に駆け抜けた1年を過ごされましたね
晩年をゆっくりするのではなく
74歳で亡くなる1年前まで
日本国中を測量し続けた晩年を過ごされた伊能忠敬さん。
伊能忠敬まとめ
今回は幼い頃の家庭環境をバネにして商人となり、
とにかく会社をきちんと大きく商売をするために、
約50歳まで働き続けた伊能忠敬さん。
伊能忠敬さんの晩年まで走り続けて、
一体いつになったら休むのだろうと思われるかもしれませんが、
ご自身がおっしゃった
日本国中測量したことは私の天命でした。
この言葉から推測すると、
日本全国を測量した伊能忠敬さんの50歳以降の時間は、
伊能忠敬さんにとって何よりも、
やっと自分のために使える時間が出来たことを、
出るように学び続け、歩き続け、
止まることのない探求心を追い続けられたことが、
伊能忠敬さんにとって一番幸せだったことなのかもしれないと思いました。
外国の方々もびっくりするほど精妙な伊能忠敬さんがお作りになった日本地図、
200年前にこんな精密な地図があったのかと
改めて日本という国を尊敬してもらえるきっかけになっただろうとも
思います。
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